1964年(昭和39年)5月25日、父・英文、母・憲子のもと、体重4,000g、三人兄弟の長男として誕生。
当時ではまだ珍しかった海外視察で南米に出かけた父は、外国の風物を撮った写真を土産に帰国。「これから日本が海外と渡り合うためには、外国語の習得が必要だ」と、海外視察で刺激を受けて帰国した父の言葉に影響を受けて、おさな心にも異国への興味をもつ。土産の写真やアルファベットの絵本、地球儀を飽きずに眺めていた。また大好きだった動物図鑑を見ては、新聞折り込みチラシ裏面(当時は裏面が白紙の物もあった)に動物を模写、大型動物の絵を部屋の壁一面に描き叱られた記憶もある。
中学時代は、厳しいながらも指導熱心な恩師の影響を受け、英語学習に熱中する日々を送った。全国英語弁論大会にも出場。そのころ、大曲市(現・大仙市)とドイツの交流が始まり、海外派遣選考の機会を得たが最終的には選考にもれた。それを機に一層、海外への憧れや興味を募らせた。
高校時代は、留学より帰国した同級生の話に関心をもち、「いつか自分も留学を」と海外への夢を膨らませた。
大学3年時は、1970年代後半のバックパッカーブームを牽引した本、『地球の歩き方』の影響を受け、待望の海外ひとり旅を果たす。この初めての旅行では、代理店から他人の復路便チケットを間違って手渡され出発するというハプニング(旅先で出会い無事交換)もあった。そして初旅行から20年後、その相手と東京駅で遭遇するという驚きと喜びのハプニングがあった。
大学卒業後、地元に戻り秋田銀行に就職。秋田駅前支店に配属され、出納係や近くの秋田市民市場へ両替金を届けるのが、最初に担当した仕事であった。
銀行を退職し、1989年夏、カリフォルニアに初留学。帰国後、父の私設秘書を務めるが1997年再渡米、コロンビア大学国際公共政策大学院で学ぶ。この時は、住居を手配しないままニューヨークへ旅立つ。現地到着後、住居が決まるまでは友人宅へ居候と、かなり無謀(無計画!?)な留学生活のスタートとなった。
大学院修士課程修了後、帰国。帰国後は、父の公設秘書を務める。2001年初代総務委員長を務めた父に伴いアメリカ、カナダへ。アメリカではNYで世界貿易センタービル(当時)を訪問。帰国して間もない9月11日、アメリカ同時多発テロ事件が勃発した。
2003年4月、国会議員在任13年4カ月で父・英文が病により死去。喪主としての葬儀の挨拶で、自然と口をついて出たのは参列者への感謝の気持ちと出馬への熱い思い、そして出馬を誓う言葉であった。
2003年11月9日、第43回衆議院議員総選挙で初当選。推薦状は、わずか7枚。組織的な支援のない中で挑んだ戦いであったが、地元秋田と国際社会への貢献を誓い、奇跡的ともいわれる勝利を収めた。
秋田県大曲市立大曲小学校 卒業
秋田県大曲市立大曲中学校 卒業
秋田県立横手高等学校 普通科 卒業
慶応義塾大学 法学部 政治学科 卒業
米コロンビア大学 国際関係・公共政策学大学院 (SIPA) 修士修了
秋田銀行 入行
衆議院議員 御法川英文 秘書
衆議院議員 初当選
衆議院安全保障委員会 委員
自由民主党入党
衆議院厚生労働委員会 委員
自由民主党秋田県第三選挙区支部長
衆議院議員 二期目当選
自由民主党国会対策副委員長
衆議院財務金融委員会 委員
自由民主党 農林部会長代理
衆議院外務委員会 委員
外務大臣政務官
衆議院議員 三期目当選
衆議院議院運営委員会 理事
衆議院財務金融委員会 理事
衆議院北朝鮮による拉致問題等に関する特別委員会 理事
財務副大臣
衆議院議員 四期目当選
衆議院財務金融員会 筆頭理事
自由民主党秋田県支部連合会会長
衆議院財務金融委員長
衆議院議員 五期目当選
国土交通副大臣 内閣府副大臣 復興副大臣
自由民主党 国会対策 筆頭副委員長
衆議院議院運営委員会 筆頭理事
衆議院議員 六期目当選
自由民主党 国会対策 委員長代理
衆議院 災害対策 特別委員長
自由民主党 国会対策 委員長代理
衆議院議員 七期目当選
衆議院 農林水産委員長
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